今回は「大江戸見聞録(其之五)」を見ながら、浅草寺~山谷堀周辺をブラブラしながら歩いてみました。
目次
浅草寺
浅草寺の始まりは推古天皇36年(628年)
坂東三十三観音札所の第十三番。源頼朝や足利尊氏も帰依。吾妻鏡にも登場する。
檜前浜成・竹成兄弟(ひのくまのはなまり・たけなり)が隅田川で一寸八分(約5.5cm)の金色の像を網で取り、主人の土師直中知(はじのあたいなかとも)に見せたら出家して自宅を寺にした。
大化元年(645年)勝海上人が寺を建てて、観音像が秘仏になった。
「小兵でも これ見てくれの 大がらん」
小兵っていうのは約5.5cmのちっちゃなご本尊のことですね。
雷門(風神雷神門)
下がっている大提灯は新橋の信徒から奉納されたもの
仁王門と仲見世
風雷神門から仁王門までの間を仲見世という。
伝法院
仲見世の左側にある浅草寺の住職が住む本坊。
境内に、小堀遠州作と伝わる池泉回遊式庭園と、表千家の不審庵を模した茶室がある。
二十軒茶屋
伝法院の向かい側を二十軒茶屋という。
・明和の三美人
明和は年代(1764~1772年)のこと。その頃にもてはやされた三美人。
蔦屋お芳|浅草二十軒茶屋
笠森お仙|谷中の笠森稲荷境内の水茶屋
柳屋お藤|浅草観音裏の楊枝店
※笠森お仙は1751年生まれなので、明和初期(1764~1769頃)は13~18才ころの計算
三社権現(浅草神社)
三社とは、前述の檜前浜成・竹成兄弟、土師直中知(はじのあたいなかとも)の三人のこと。
例祭は3月17、18日(今は5月の第三金土日)
奥山
浅草寺の本堂裏側一帯のこと。奥山名物は見世物。今で言う手品や実演販売なども。
随身門(二天門)
浅草寺の東側。
日本堤から吉原へ
吉原は江戸で唯一の公許の遊郭。
江戸初期は「日本橋葺屋町」にあり昼間の営業のみ。※葺屋町は今の人形町。
明暦の大火後(1657年)に浅草山谷地区に移転し昼夜営業に。
吉原への行き方は、山谷堀を猪牙船(ちょきぶね)で進むか、日本堤の上を徒歩か駕籠で行くか。
山谷堀と日本堤
山谷堀沿いの堤が日本堤(土手八町|約880m)
荒川の洪水対策として、徳川家康が諸国の大名に命じて築かせた。
今戸橋
隅田川から山谷堀に入った一番始めにかかっている橋。
「今戸橋 上より下を 人通る」
橋を渡る人より、猪牙船(ちょきぶね)で山谷掘りを進んで吉原に行く人が多かったと。
見返り柳
新吉原遊郭の名所の一つ
五十間道
見返り柳から大門までの通りを五十間道(約90m)
地図でも良く分かるが、「く」の字に曲がっている。先を見えないようにするため?
大門(おおもん)
吉原の入口。
おはぐろどぶ
吉原のまわりを囲っている堀。当時はその外は「浅草田圃(たんぼ)」