今回は京都に行ったときに目についた、また鎌倉検定本にも掲載されている「小堀遠州」を取り上げてみることにしました。
小堀遠州
1579-1647年。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。
物凄い色んな顔を持っているんですね。
京都では「茶道資料館」で名前を見かけ、鎌倉では「光明寺」の記主庭園で名前を見かけますね。
光明寺(鎌倉)と小堀遠州
光明寺にあるハスが見事な記主庭園。
鎌倉検定本には、この記主庭園は小堀遠州の流れをくむ人物の作庭と言われています。
つまり、小堀遠州が実際に造った訳じゃないんですね・・・。今まで間違った理解をしてました(汗)
光明寺の開創は1240年頃なので、1579年生まれの小堀遠州はかなり後の人物ですね。
ちなみに記主庭園の名前になっている「記主」は、開山の然阿良忠(記主禅師)から取ってますね。
然阿良忠は浄土宗三祖という凄い人。
浄土宗の宗祖:法然上人
浄土宗の二祖:聖光上人(鎮西上人)
ちなみに浄土宗の総本山は京都・円山公園の北側にある知恩院です。
光明寺のHPには小堀遠州の名前は出てきませんが、他のHP等では
・池泉庭園「記主庭園」
・枯山水「三尊五祖の石庭」
の二つとも、小堀遠州作と書いちゃってる場合もあります。どっちなんでしょう?
京都での小堀遠州
京都には小堀遠州作の庭として有名なものに下記の物があります。
・金地院庭園(南禅寺塔頭)
・二条城二の丸庭園
NHK大河ドラマの葵 徳川三代で、2代将軍「徳川秀忠」が小堀遠州に二条城の庭を造らせてる。と、話す場面がありますね。
小堀遠州は藤堂高虎と親戚。藤堂高虎は徳川秀忠に使えた大名です。
また、書院座席に草案茶室を融合させた
・孤篷庵(こほうあん)-大徳寺
も有名です。
※京都・観光文化検定試験公式テキストブックより
江戸時代は茶の湯(茶を振舞うこと)が社交の場として発展し、禅宗寺院の塔頭には多くの庭園(書院造庭園)と茶室、露地ができました。
※露地:茶室に付随する庭園の通称
小堀遠州は幕府の作事奉行、伏見奉行として活躍。
※作事奉行:幕府における造営修繕の管理
※伏見奉行:伏見の民政管理、宇治・伏見・木津川の船舶取り締まり、京都御所の警備等
小堀遠州の略歴
いったい小堀遠州はどんな人生を送ってきたんでしょうか、ちょっと時系列で調べてみました。
・1585年 初めの上司は「羽柴秀長(秀吉の弟)」で、秀長と一緒に大和郡山城へ。
・千利休に師事。郡山が茶の湯の盛んな土地へ。秀吉への給仕も。
→父の勧めで大徳寺に参禅
・1598年 秀吉が死去し、徳川家康に仕える。 父正次が備中松山城を賜る。
・1608年 駿府城の修築の功で遠江守に。小堀遠州と呼ばれるようになる。
・茶の湯をプロデュース。世の中に名物として認知させるようにした。
→小堀遠州が有名にした茶道具群は中興名物に。
・晩年は茶の湯三昧な生活。遠州流茶道として続いている。
・小堀遠州がもたらした美意識は華道世界にも反映。華道遠州。
京都にある茶道総合資料館で見た、茶道具図鑑の特別展で、小堀遠州所有の物が多かった理由も何となく分かってきましたね。
いろんな人に仕えて、人と人との交流を茶の湯等で楽しんだ方なんでしょうね。