小田原城|後北条氏の拠点、難攻不落の城

小田原城|後北条氏の拠点、難攻不落の城

2020-10-26

今回は神奈川県小田原市にある小田原城に行ってきました。

小田原城(日本100名城 No.23)

小田原城へのアクセス

・電車で

小田原城の最寄り駅は小田原駅。

多くの方はJR小田急で来ると思いますが、他にも箱根登山鉄道、伊豆箱根鉄道、東海道新幹線と5路線も乗り入れている大きなターミナル駅です。

小田原宿の北側にあり、駅から小田原城天守閣が見えるほど距離が近く(約1km)電車が便利です。

・車で

西湘バイパスの小田原ICで海側から
小田原厚木道路の荻窪ICで山側から

いずれも小田原城の近くにICがあるので一般道路を長く走行することはありません。また神奈川県の中では地方都市の部類に入るので、渋滞もそれほど酷くならないと思います。

小田原城や小田原市街には沢山のコインパーキングがあるので止める場所には苦労しないと思いますし、値段も都内ほど高くはありません。
 ※土日祝 440円/60分 上限なし(お城に限りなく近いパーキングの一例)

小田原城 スタンプ設置場所

・小田原城天守閣

日本100名城のスタンプは小田原城天守閣1Fの受付にあり、受付の方に言うと出してくれます。
入場券販売所の奥にあるので、拝観料は必要なのかもしれません。

天守閣入館料:大人 510円(単独券)
休館日   :12/31-1/1、12月第2水曜日

小田原城天守閣1F内部

※小田原城の100名城スタンプは下記インスタの通り

天守閣の内部は5Fまでタップリ資料館になっていて、シアターなんかもあり物凄く勉強になりますね。
(2Fは写真撮影が禁止)

どうしても、小田原北条氏のテーマがメインになっているんですけど、立派な小田原城になったのは江戸時代ですし、小田原北条氏が100年に対して、江戸時代は約250年。もっと江戸に注目してもらいたいな。

小田原城の見どころ

昭和35年に再建された三重四階・層塔型の天守

江戸時代(宝永年間|1704-1711)の再建のときに作られたも模型や設計図を基にして外観復元された天守。
3重4階の天守櫓に付櫓と渡櫓を付した複合式天守閣。

最上階からは、箱根、伊豆半島、大島、一夜城など360度のパノラマが広がっています。

再建された銅門・常盤木門

・二ノ丸表門「銅門(あかがねもん)」

馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にある門。
銅門っていう名前は、渡櫓門の銅板の装飾から。

内仕切門と土塁で枡形門の構造を取っています。

・本丸正門「常盤木門」

本丸に二つある門(常盤木門、鉄門)の一つ。
本丸を守る正門ということもあって、他の門に比べて大きく多聞櫓と渡櫓で枡形門を形成しています。

これは宝永3年(1706年)に再建された姿。明治3年の小田原城廃城までそのままでした。

日本城郭検定 過去問題対策

城下町をも含む全周9kmの大規模な総構

戦国時代に小田原北条氏が築いた堀。
小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)が有名で、約300mが現存しています。

三代目の北條氏康の時に築かれた三の丸の堀にあたるようです。

小田原城 その他

北条氏政・氏照の墓所

JR小田原駅の南側、ごちゃごちゃした商店街の裏側にひっそりと墓所が残されています。
北条氏政は第4代当主。氏照は氏政の4才年下の弟で滝山・八王子城主です。

この墓所は、稲葉正勝氏(春日局の子供で徳川家光の側近)が小田原城主の時(1633-1685)に北条氏追福のために整備された。

江戸時代の小田原北条氏

小田原北条氏は、北条早雲から始まって5代に渡って100年近く関東を手中に収めたことは有名ですけど、豊臣秀吉に降伏してからの小田原の話は聞かなくなりますね。

日本人の多くは戦国時代の派手さが好きで、江戸時代の安定が退屈なんでねー。

北条氏の後は、小田原合戦から江戸幕府開府まで「大久保氏」
その後、阿部氏、稲葉氏、また、大久保氏と続きます。1700年代~明治維新までは大久保氏です。

小田原城の支城ネットワーク

小田原北条氏時代には、小田原城を中心に関東広域に支城ネットワークが形成されていました。
鎌倉にある玉縄城、日本100名城でもある八王子城など、北関東では忍城など。

天守閣のシアターでは、vs豊臣秀吉の小田原合戦で支城が次々に降伏していく様が描かれますが、小田原降伏まで唯一耐えた「忍城」がとっても目立ちます。

忍城|小田原征伐で最後まで持ちこたえた支城
今回は埼玉県行田市にある「忍城」に行ってきました。 本来は湿地帯を上手に活用したお城で「浮き城」とか言われてたみたいですけど、今は殆ど埋められてまったくわりませ…
www.kagolabo.jp

狭山藩北条氏

豊臣秀吉に敗北した小田原北条氏。
その後、江戸時代には北条早雲の子孫が、狭山藩(約1万石)を与えられて明治時代まで藩主となりました。

城持ち大名では無かったので、中心となる建物は陣屋(狭山陣屋)で、その跡地が残っています。

狭山池沿いには下屋敷もあったようですね。

お城巡りに役立つ本